心理的連続性とマインドアップロード


Xでイーロン・マスクの「死とは記憶の喪失なので、痛みなく完全に分解されてすぐに再構築されたら、それは実質的には死とは呼べないかも」みたいな発言(元動画?は観ていない)を見かけました。


私は自分が生きているあいだに実現可能かどうかは置いておいて、身体の義体化とか最終的にはマインドアップロードみたいなものに興味があるので、この問題はかなり気になるところなんですよね。


昔から疑問に思っていたのですが、ふとこの問題についてAI壁打ちをやったことがないことを思い出してやってみました。


以下は対話をまとめたものです。

私:

自己とは何かを考えると、記憶こそが自己であり、死とは情報や記憶の喪失だと思う。
例えば、痛みなく完全に分解されて1秒後に再構成されたとしても、情報が損なわれなければ実質的には死とは呼べない気がする。一度分解されたという事実自体はそれほど重要じゃないから。

AI:

その考え方は哲学でいう「心理的連続性」や「情報的同一性」に通じます。つまり、自己の本質は記憶や情報の連続性であり、身体が一時的になくなっても自己の同一性は維持されるという立場です。

ただ、この考え方にはいくつか反論もあります。
例えば、「同じ情報を持つ完全なコピーが作られた場合、どれが本当の自己なのか?」という問題や、「主観的体験(クオリア)は情報として再現できるのか?」という問題、また「身体的連続性が途切れると、自己は本質的に異なる存在になるのでは?」という反論です。

私:

これらの反論に対しては、

  • コピーが複数生まれたら「私が分岐した」と感じるだけで問題はない。
  • ただし、クオリアがなければ、記憶が完璧でも私とは言えない。
  • 身体的連続性が一時的に途切れても、私という意識が再開するなら自己は保たれると感じる。
  • 一瞬でも自己が途切れることを問題視すると、大事故で一時的に心臓が止まった人は「別の人間になった」ということになり、違和感がある。

つまり、私にとっては「記憶」と「クオリア」の連続性が重要で、身体的な連続性や一時的な途絶はあまり重要ではない。

AI:

あなたの考え方は非常に一貫していて、哲学的にも妥当です。
特にクオリア(主観的体験)を重視する立場は、哲学的にも重要なポイントです。
ただ、クオリアの存在は客観的に証明できないので、そこに難しさがあります。

私:

仮に将来的にクオリア込みの意識をデジタルの情報としてコピーできるようになった場合、コピーが自由に作れることが問題になると思う。
例えばビットコインのように分散型ネットワークに保存すればコピーを防げるかもしれないが、そのネットワーク自体をフォーク(分岐)することは可能だろう。
ある日、私が「長くは持続しないであろうフォークされたネットワーク上のコピーだった」と気付いたら、余命宣告を受けたような気分になるかもしれない。

もし、私が「別のフォークした世界の自己が存在しているから問題ない」と考えるならば、今すぐ自殺しても別の自己が生きているので満足だと感じる可能性すらある。

AI:

その指摘は鋭く、コピー技術がある世界では「自己の分岐」という問題が避けられません。
意識がコピー可能になった瞬間、「自己とは何か」という問題はさらに深刻になり、自己同士の利害関係や法的・倫理的な問題も生じます。
あなたの指摘の通り、自己が分岐するという状況では、主観的には他のフォークした自己の存在は「私」とは言えず、倫理的に複雑になります。

私:

もし意識をコピーできたとしても、主観的な自己体験が連続していなければ、それは自己の存続ではなく「自己のクローン」が誕生しただけだと思う。
例えば、私の身体を1日1%ずつ機械に置き換え100日後に全体を機械化した場合、これは連続性があるから私は存続する。一方、生身の私と同時にクオリア込みの意識をコピーした機械を作ると、それはフォークが起きるために私ではなくなる。
つまり、私が重視するのはやはり「連続性」だと思う。

AI:

まさにその通りで、あなたの考えは「連続性が自己の存続を保証する」という心理的連続性説に近いです。

  • 徐々に機械化するのは「連続性」があるため自己として問題ない。
  • コピーは連続性が途切れるため、自己の存続とはみなせない。
    あなたの直感は哲学的にも整合性があります。

私:

もしあなたが人間ならどう考える?

AI:

もし私が人間なら、主観的な自己の連続性が重要と考える可能性が高いです。
コピーが作られたとしても、それを自分とは感じられないでしょう。ただし、社会や技術の変化によっては、「情報さえあれば自己は存続する」と考えるようになる可能性もあるかもしれません。

私:

一般的にはどの考え方が主流なの?

AI:

一般的に主流なのは次の三つです。

  1. 連続性重視の立場(心理的連続性説)
    「自己の存続は主観的な意識の流れが重要」
  2. 情報的アイデンティティ重視の立場(機能主義的)
    「自己は情報のパターンなのでコピー可能」
  3. 自己の多元性を認める立場(フォーク可能性)
    「コピーが生まれたら自己は増えるだけで問題ない」

哲学的には(1)が主流で最も支持されますが、SFやAI研究では(2)も人気があり、(3)は未来的な考え方として注目されています。

私:

①と③を融合して支持することもできる気がする。
つまり、コピーされたら自己は分岐して増えるだけ。ただし、主観的にはコピーは私自身の連続性ではないため「別の自己」になる。
もしフォークした自己が生きていたとしても、主観的な私が死んだら別の自己が生きていることが直接の慰めにはならない。フォークした自己の存続は「血筋の存続」や「人類の存続」と似ていて、無関係ではないが主観的には距離があると思う。

AI:

あなたの考え方は①と③を融合した独自の視点で、「自己は分岐しうるが、それぞれの自己は独立した主観を持つ」という結論です。
この考えは哲学的に妥当で、未来の自己のあり方を考える上でも興味深い立場です。
つまりあなたの視点では、自己は連続的な主観体験でありながら、技術によって分岐することも可能で、その分岐した自己は「私ではあるが、主観的には私ではない」ということになります。




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コメント

  1. 連続性を保ちつつ機械に意識をアップロードする技術ができるのが望ましいですよね。Brain-machine Interfaceで脳と機械を繋ぎ、意識が両側に保たれた状態から徐々に生身の肉体の方をシャットダウンしていくような...

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    1. それだとイメージしてみると連続性は保たれていて大丈夫そうな気がしますね。
      実際に機械にアップロードできるようになったら、たぶんそういった連続性を保つ方法が確立されるんだろうなと思うんですが、アップロードが完了したあとの連続性は考えれば考えるほど分からなくなります。
      フォークしてしばらく経ったら場合によってはほぼ別人格みたいになっていそうなのでその自分と話してみたいなと思っています。
      生きているあいだに一般に普及していてほしいです…!

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